トナとぬいぐるみ王国の抵抗

 

(この文章は、半年ほど前に書いた「トナとぬいぐるみ王国の没落」の続きです。そちらを先にお読みください)

 

その後のぬいぐるみ王国

最近、家人(10歳男子)の成長が目覚ましい。

ついこの間まではとんでもない怖がりで、クラスで流行っている漫画やアニメにもまったく付いていけなかったのが、唐突に吹っ切れたようだ。クラスでの世間話から「鬼滅の刃」の粗筋をほぼ完ぺきに把握したうえで映画を観たことで、怖さが大幅に軽減されたのが自信につながったのだろう。すっかり「鬼滅の刃」やら「呪術廻戦」やら「ワンピース」が好きになり、日々そうした設定を取り入れた空想に耽っている。

怖さを克服して流行に乗れるようになったことで、家人には少しだけ社会性がついた。それはめでたいことなのだが、今度は他の人の視線が気になるようになってきたらしい。

最近、お友達が家に来るときは、ぬいぐるみ達を両親の寝室に隠すようになった。前回の文章に書いた通り、家人は30個ほどぬいぐるみを所有していて、彼らはバスケットの中に集合している。こいつらが、お友達が遊びに来るたびに寝室へ大移動するのだ。わーきゃー言いながら引っ越して、お友達が帰ると、あー寒かったなどと口々に言い合いながら戻ってくる(のを、家人が口寄せする)。親としては、無理に隠さなくても良いのではなかろうか、とも思う。家人の仲良しはおっとりした子なので、人を面と向かって馬鹿にしたりはしないだろうし。とはいえこれは自意識の問題であるから、本人の判断に任せるしかない。

旅行にお供するぬいぐるみにも変化が現れた。最愛のぬいぐるみ、トナがスタメンから外れたのである。その代わりにトナ弟が同行するようになった。そう、実はトナには弟がいる(フードをかぶったクマのプーさん)。こいつがリュックサックの中に入れられることが増えてきた。家人の気まぐれかと思っていたけれども、もしや兄よりも一回り小さいことがトナ弟のスタメン起用の理由ではないだろうか。持ち歩くぬいぐるみが少しずつ小さく、目立たないものに交代していくこともまた、成長の一種なのかもしれない。

――こうやって、家人はぬいぐるみ王国から少しずつ卒業していくのだろう。

とはいえお友達が来るたびに実施される民族大移動を免れているぬいぐるみ(?)もいる。まず、スポンちゃんである。

名前の通り、彼はスポンジだ。

 

 

 

 

家族でホテルに泊まった時に子供用のアメニティとして頂いたものである。家人は一目見てかわいい!と喜び、即座に体を洗うスポンジとしてのお役目は免除された。他のぬいぐるみと違い、スポンちゃんはお喋りしたり戦ったりしない。ただ、周りの状況に応じて、ちょっと笑ったり、ちょっと怒ったりする。

 

 

 

なかなか喜怒哀楽は豊かなのだ。しかし、傍目にはスポンジに人格があると分からないので、お友達が来るときも澄ました顔で棚の上に鎮座している。

そして、家人の部屋に残留するもう一匹のぬいぐるみはポケモンラティアスである。おそらく、ポケモン趣味は小学生の間でもポピュラーなので、ぬいぐるみが部屋にあっても馬鹿にされないと子供なりに判断しているのだろう。特にラティアスはシュッとした姿をしていて、ちょっとドラゴンのような格好良さも備えているから隠されないのだ。

同じポケモンでも、家人が最も愛するイーブイのぬいぐるみは寝室に避難する。イーたん(イーブイの名前)は眠たがりなので、みんなと一緒に寝室へ避難したついでに昼寝をするのだと家人は説明している。だが、理由はそれだけではないだろう。

まず、イーたんは尻尾に家人の靴下を被っている。家人にはとてもお気に入りの靴下がある。三足千円でまとめ買いした何の変哲もない黒白のストライプの靴下だが、家人は大好きでことあるごとに履いていた。流石に擦り切れてきたし小さすぎるので捨てようとしたら激しく抗議され、結局イーたんの尻尾カバーとなった。家人はモノを捨てられない男なのである。しかし、事情を知らなければ何でこのイーブイは靴下被っているのかと訝しがられるだろう。だからイーたんは避難させられるのである。

さらに言えば、イーブイが可愛すぎるのも問題なのではなかろうか。ラティアスのように格好よくて男の子が好きそうなポケモンと比べると、犬と猫とフェネックを掛け合わせたような姿のイーブイ愛玩動物である。それ自体は別に悪いことでも何でもないのだが、男の子としてはちょっと大っぴらに言いがたいことだったりするのだと思う。

そもそも家人の好きなポケモンヒメグマイーブイである。かわいいが前面に押し出されたポケモンが好きなのだ。それは彼の個性であるし、自由に愛好すればいいのだけれども、同世代の子供に気軽に話すと馬鹿にされる危険性があることも確かである。保育園の頃から、家人が他の園児に「女みたい」ときつい言葉を投げかけられるのを目にしてきたから、私は彼の用心を否定できない。(ちなみにそういうことを言ってくるのはほとんど女の子だった。女らしさという呪いは必ず自分自身に跳ね返ってくるものなのに。彼女たちは今ごろどうしているだろうか)

だから、家人の心のゆったりした部分は、これからますます隠されていくのだろう。

そうやって内と外の間に境界線を作って、自分の世界を守っていくのも一つの方策ではある。親としては少なくとも家庭内ではのびのびと自分の好きなものを好きでいられるようにサポートしていきたい。

ただ……それってどうやったら良いんだろう。自己肯定感というものが関係してくるのだろうけれども、私は家人を肯定するということがちゃんとできているだろうか。少なくとも彼を否定することはしてはいないと思うが、積極的に肯定できている自信もない。なぜなら、私は人を褒めることがとても苦手なのだ。

 

媚びずに働き続けること

私はこれまで、人を褒めないように心がけて生きてきた。特に注意して避けてきたのがお世辞である。こちらは社交辞令だと思っていても、本気の好意だと勘違いされると困るからだ。

私が働いている業界では、50代~60代の男性が遥かに年少の女性と再婚するといった話をよく見聞きする。再婚するから表沙汰になるのであって、浮気はもっと多いのかもしれない。私自身は、年齢差・立場差がある状態から恋愛を始めたいとはまったく思わないが。

仕事の都合で年上の男性と会話する機会は多い。彼らは経験も知識も豊かで、とても賢い人びとである。ところが、たとえ天才とみなされている人であっても、女性との距離をつかみ損ねることが多い。パワハラに鈍感だったりもするので、おそらく力関係というものに無頓着なのだろう。こちらが相手に個人的な好意を抱いていると勘違いされることもあって、そうすると仕事に多大な支障が生じるのである。

相手と適切な距離を取りつつ働くために、できるだけぶっきらぼうな対応を取るという方針を堅持してきた。コミュ力の高い友人などは上手に社交であることを明示しながらお世辞を言っているが、私はどうしても相手に個人的な好意を抱いていないということを直球で示すことしかできない。だからいつも「はあ、そうなんですか」と気の抜けた相槌ばかり打っている。

愛想のない人間として、何とかこれまで働き続けてくることができた。もちろんサポートしてくれる家庭があったことが最大の僥倖だったのだろう。私より少し上の世代の女性たちで現役の方の多くは未婚であったり子供がいなかったりするので、女性も働き続けられる時代へと急速に変わってきているのかも。

ただ、自分自身がそれなりに年齢を重ね、それなりのポジションで働くようになって、人を褒めるやり方が分からなくなっていることに気がついた。目下の人びとを褒めたり励ましたりするのがともかく苦手なのだ。働き始めの方々は不安も多いからポジティブな言葉を投げかけるべきだと思うのだが、長年身についた習い性が邪魔をしてくる。できるだけ厳しい言い方をしないようには心がけているけれども、わざとらしくなくフォローを入れることができているという自信はない。

仕事中の態度は日々心がけていくしかないのだが、心配なのは家庭である。ただでさえ繊細で怖がりで、周囲に合わせるのに苦労しているような子供だ。ちゃんと自己肯定感を持てるように、もっと家人のことを直球で褒めてあげるべきじゃないだろうか。

 

 

永遠の満月

そんなことをあれこれ悩んでいたのだが、最近、少しだけ自分のこころもちが変わってきた。

きっかけは、家人の学校の課題である。好きな詩を探してきて書き写すというものだったので、書写か国語の一環だろうと思う。昨今の小学生は授業でもネット検索をするらしくて、おのおのインターネット上から好きな詩を探し出したと聞いた。完成した文集をざっと眺めたところ、人気なのはやはり金子みすゞとか谷川俊太郎とか、その辺の詩人が多い。

ところが、家人だけは違っていた。

家人の書写した詩には、そもそも作者名が書かれていない。死を恐れないことが主題で、なんというか……少し恰好をつけたような文体である。

いったいどこから見つけてきたのかと聞いたところ、ネットリテラシーが身に付いた大人にはちょっと思いつかないような奇想天外な検索方法を取っていた。家人の説明に基づいて発見した詩は、仕事を定年退職した男性が趣味でネットに公開している作品だったのだ。

客観的に判断すれば、それはお世辞にも良い詩ではなかった。ウェブサイトでは現役時代にそれなりの社会的地位についていたことが全面にアピールされていて、そのくせサイトのデザインが時代遅れなのが物悲しさを醸し出していた。

もうちょっとこう、何とかならなかったのか。

先に相談してくれれば、家人の好みに合いそうな詩を提案することもできたのに。後から黒歴史にならなければいいんだけど。一瞬、そんなことを思ってしまった。でも、家人自身はこの詩を気に入っているようだったので、私は黙っていた。

そして、つらつらと考えているうちに、思い直した。

いまだに自分や家族が死ぬかもしれないというのが怖くて、時おり不安を口にする家人は、人生の達観を嘯く詩に励まされたのだ。どんなに凡庸な詩であっても、それを選びとった彼の心の動きは素晴らしいものではないだろうか。

考えてみれば、作品の解釈はどこまでも自由であるべきだ。傍目からみたらどんなに駄作でも、読者の心に響いたのなら、その作品は何らかの素晴らしさを秘めているということだ。

それに、作者の文脈を汲み取らないということには、何らかの愉快さがある気もする。例えば、「この世をば 我が世とも思え久方の 月の欠けたることもなしと思えば」という和歌を聞いた子供が、欠けることのない満月なんて素敵だなと素直に感動することだってあったかもしれない。摂政関白として、平安時代の貴族たちの頂点に立った藤原道長の栄華をまったく歯牙にも欠けない態度は、それはそれで痛快なんじゃないだろうか。

現役時代は偉い立場にあった人が、定年退職した後の趣味の詩作において表明する悠々自適の感覚をまったく読み取らないところにも、永遠の満月に憧れることに通じる詩情がある。

そんなふうに考えていたら、家人のことをこれまでよりも積極的に応援できるような気がしてきたのである。

 

触発する呼びかけ

ところで、家人の文集をめぐるあれこれについて考えていて、学生の頃に読んだジュディス・バトラーという思想家のことを思い出した。

例えば、『触発する言葉』という本の中で、バトラーは次のように問う。アフリカ系アメリカ人の家族が住む家の前で差別主義者が十字架を燃やす時(お前を磔にして燃やしてやるぞという意味が込められている)、それは言論の自由として擁護される。ところが、軍隊において自分がゲイであるとカミングアウトすることは言論の自由ではなく、周囲に対する攻撃として非難されるのはなぜなのか。バトラーはこうしたダブルスタンダードの背景にある論理を明快に分析していて、25年も前に書かれた本とはいえ、今日でも同じような言論状況が続いているので、もう少し参照されたらいいのになあと思ったりする。

なぜこの本のことを考えたのかというと、アルチュセールというフランスの思想家が提唱した「呼びかけ」という概念についての下りが響いたからだ。権力というものは一方的に臣民に対して命令するのではなく、名前を呼びかけてくる形を取る。例えば警察官が「おい、そこのお前」と居丈高に怒鳴ってきたら、こちらもつい反射的に振り返ってしまう。振り返ることで、私たちの中には権力に従う主体が形成される。イデオロギーに対して日々の場面で自発的に服従してしまうし、呼ばれてしまったら意識的に抵抗することは難しい。

多分、男らしさや女らしさをめぐるイデオロギーも、私たちのなかにいつのまにか内面化されるようなものなのだ。「家人くん、女の子みたい」というコメントが耳に入った瞬間に、その呪いは心の奥底へ沈着していくように。

ただし、バトラーの議論には少しだけ希望が残されている。権力に服従する主体を呼び覚まそうとする声は、何度も繰り返される。ところが、呼びかけが反復されることで、支配対象が応答しそこねる可能性も増えてくる。なぜなら「おい、そこのお前」と怒鳴られても、ぼんやりしていれば聞き逃すかもしれないし、誰か他の人を呼んでいるんだろうと勘違いするかもしれないからだ。男らしくあれ、女らしくあれ、という呼びかけもまた、どんなに自発的に従おうとしても、失敗が内包されている。完璧に男性であること/女性であることを実践できる人なんていないのだから。

家人もまた、現役時代は偉かったのだろう人物の書いた詩を選び取った時に、日本社会の権力と階層の構造からの呼びかけを受け止め損ねたのだと思う。偉さを誇示する表現としての詩をうっかり誤読することもまた、日常的に降りかかってくるイデオロギーの呼びかけに答えない行為だ。そして、スポンジのクマが澄ました顔で棚の隙間に居座っていることも、ぬいぐるみをかわいがるなんておかしいという男性らしさ/女性らしさの規範に基づく呼びかけの失敗である。

イデオロギーは、私たちの日々のやり取りのなかにはりめぐらされている。でも、そこから偶然はみ出していく可能性もまた、日常の中に思いがない形で出現するんだろう。そうした偶然の逸脱を、親としてはできるだけ肯定的に受け止めていくべきではないかという気がする。

 

近ごろアメリカナダで流行っていること

こうして家人は、少しずつマジョリティに合わせた生き方をするようになった。それでも、家人のぬいぐるみ王国はしぶとく生き延び続けている。最近判明したのだが、アメリカナダという彼のぬいぐるみたちが暮らす世界には、なんとツイッターがあるらしい。

 

「最近、納豆にかつおぶしを入れると美味しいよって誰かがツイッターで言って、それを皆がイイネしたの。それまでは納豆にネギを入れていたんだけど、今はみんなかつおぶしを入れてるよ」

 

納豆にかつおぶしを入れるのは、家人のマイブームである。それをアメリカナダのぬいぐるみたちも追随しているのだろう。(ちなみに、家人はツイッターをちゃんと見たことはないはずだ。おそらくYouTubeの実況などから推測しているのだろうが、理解が正しすぎる……)

想像の世界は少しずつ現実と接近しながら、いまもなお呑気な日常を堅持している。

いつかは薄れて消えていくのだろう物語の断片を、せめて私だけは覚えておくために。ここに、書き記しておく次第である。