ぬいぐるみ王国と諸行無常の来襲

(この文章は、「トナとぬいぐるみ王国の没落」と「トナとぬいぐるみ王国の抵抗」の続きです。そちらを先にお読みください)

 

星になったトナ

夏休み頃から家人(11才)が紅茶に嵌っている。創也くん(はやみねかおる著『都会のトム&ソーヤ』シリーズの主人公の一人)みたいに紅茶を淹れてみたいという動機から始まったので、オタクとしての資質を感じる。教科書通りにきちんとポットを温めて、茶葉から丁寧に淹れてくれるので、お相伴する母としてはありがたい限りである。美味しい紅茶と、時には自分で作ったお菓子を食べながら好きな本を読むのは、本人としても至福の時間らしい。

紅茶を淹れるというのは色々な手順をきちんと踏んでいかなくてはならない作業らしく、どこか儀式めいている。だからこそ、家人にとっても勉強の合間の良い気分転換になっているんだろう。

そう、勉強だ。小学五年生ということで、家人も塾に通い始めたのである。学校のお友達が何人か同じ塾に行っているし、授業も面白くて楽しいらしい。親としては、頑張って偏差値が上の学校を目指そうという気にはなかなかなれないところもある。いわゆる名門男子校出身者と話していると、頭のよさにのみ価値が置かれた空間で思春期を過ごすのは辛かったんだろうなと思わされるからだ。一方で、変わり者かつ繊細な家人が公立中に入っても大変な未来が待っていそうで……まあ首都圏なら選択肢は多いのだし、彼に合う学校が見つかればいいな、くらいの気持ちでいる。

ただ、いくら授業自体が面白くても、学校の宿題以外に勉強をしたりテストの結果によって評価されたりするのは、家人にとって初めての重圧である。その重荷を肩代わりするように、家人の所有するぬいぐるみ達もアメリカナダの塾に通い始めたらしい。ぬいぐるみ達の成績は様々なのだが、一番勉強ができないのは「イーたん」(ポケモンイーブイぬいぐるみ)である。イーたんが通っている塾は週に1回30分だというから、あまり勉強になっていないのかもしれない。家人が勉強していると、横からイーたんが可愛い声で見当はずれの答えを言ってくる(のを、家人が口寄せする)。

それでもイーたんは困らない。なぜなら、彼(?)はぬいぐるみのくせにペットを飼っていて、そのペットが超優秀だからである。イーたんのペットは「べえ」という名前だ。

 

こいつである。

 



 

薄っぺらいし、ほよっとした面構えをしているが、実は万事につけて優秀なのだ。拘束時間が長いことで有名な某塾に通っていて、毎晩遅くに帰ってくるらしい。イーたんが間違った答えを言っても、べえが正解してくれるから帳消しなのである。勉強ができなくてもあんまり気にせず、ペットに助けてもらえるイーたんに投影することで、家人は自分にかかるプレッシャーを軽減しているのだろう。

それは大切な心理的機構だとは思うのだが、勉強しているときにいちいち間違った答えまで考案しなくてはいけないので結構な手間である。その思考に費やすエネルギーを正解する方に傾けてくれないものか…。

イーたんを始めとするぬいぐるみ達の不正解だけではなく、家人はアメリカナダに当てはまる別の自然法則も考案しようとする。例えば、北極星の見つけ方だ。教科書通りに行けば、北斗七星のひしゃくの先端にある二つの星の距離を5つ分まっすぐに伸ばしたところ、カシオペア座のWの両端の線を伸ばして交わったところとWの真ん中にある星とを結び、その距離を5つ分伸ばしたところに北極星がある。(https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005400653_00000

しかし、アメリカナダでは違う。トナ弟の服のボタンが北極星であり、トナ兄は北斗七星である。さらに、カシオペア座ではなくオリオン座(本当は冬の星座ですね)が一年を通して空にあり、それはこっこ(我が家で一番大きいぬいぐるみ。クレーンゲームで親戚がゲットしたにゃんぼー)である。こっこのお腹辺りにオリオンの三ツ星があり、これを5つ伸ばしたところにトナ弟の北極星があるというのがアメリカナダの「空のめぐりの目当て」である。北斗七星はおおぐま座北極星こぐま座だというところを踏まえた配役になっているところは正しいのだが、ややこしいったらない。

塾の勉強という形で世界の輪郭を学ぶ傍らで、家人は自分だけの世界のアップデートを図っているのだろう。ギリシャ神話の神々が星座となっているように、ぬいぐるみ達も星となって空をめぐるのだ。

 

学ぶことと生きること

ただ、家人にとっては受験勉強のプレッシャー以前の問題がある。一時期は収まりつつあった怖がりが、すっかり復活してしまったのだ。どうやら学ぶ過程で出会う知識が怖くなったり辛くなったりしてしまうらしい。

きっかけは、丸暗記しているとついつい空想に脱線しがちな家人に、勉強の内容について少しでもイメージが沸くようにと推薦した本や漫画やテレビ番組である。歴史漫画「日本の歴史」を読んでいたところ、明治維新編に描写されている近江屋事件が恐ろしすぎて、本棚にその本が置いてあるだけでも耐えられなくなってしまったのだ。その巻だけ処分してほしいと頼まれたのだが、しかし明治維新だけ歴史の知識がぽっかりと抜け落ちてしまうのもどうだろう。結局、夫が近江屋事件のページだけ豪快に破り取って捨てることで解決した。

他にも、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」が無理だった。途中から見始めたのだが、和田義盛という人の良いキャラクターが着々と破滅に向かっていく描写がしんどかったらしく、和田合戦の手前で脱落してしまったのである。アニメ「平家物語」も、のちに建礼門院となる徳子ちゃんがいい子過ぎて二話でギブアップした。史実は動かせないからこそ、悲劇へと着々と向かっていくのが耐えきれないのだろう。

まあ彼にとってしんどくない作品を推奨すればいいことではあるので、近ごろは気を付けるようにしている。家人も『オデッセイ』を観て科学のパワーを実感したり、「ブラタモリ」を観て地理的思考に親しんだり、三浦しをんの職業小説を読んで林業や植物学を身近に感じたりしているようだ。

とはいえ、親が前もって怖くない情報を選別するのも限界がある。先日、昆虫について勉強していた時のことである。どうして昆虫には翅が4枚あったり2枚あったり、はたまた翅をもっていなかったりするの、と言いだした。理由が分からないことを覚えるのは苦手な家人が音を上げていたので、YouTubeで調べてみたら?と何の気なく提案した。「昆虫・不思議」とかで検索したら解説動画が一杯出てくるんじゃないの?

それもそうかと家人はタブレットで動画を探していたのだが、やがて青ざめた顔をしてやってきた。検索結果のサムネイルに恐ろしい画像があったというのだ。タブレット画面をみると、確かに「刺されたら痛い昆虫ランキング」みたいなタイトルの動画があって、手の甲一面を虫に刺されたような写真がサムネイルに入っている。慌てて検索画面をスクロールし、昆虫の進化について分かりやすく説明していそうな子供向け動画を開き、その場では何とか事なきを得た。

しかし、家人は一瞬で目に焼き付いてしまった画像が忘れられないらしく、どういう虫に刺されたら手があんな風になってしまうの? この辺にも刺す虫がいる? などとその後もしつこく尋ねてきた。

大丈夫だよ、この辺は都会だからそこまで猛毒性の虫なんていないよ。ブラジルのアマゾンとかに行ったらいるかもしれないけど、地球の反対側だから。何度も説明したのだが、家人はどうも安心できなかったらしい。とうとう寝る直前になってじわじわと蓄積してきた恐怖が頂点に達し、そんなこと言ったって飛行機や貨物に潜んで日本に来たかもしれないと半泣きで訴えてきた。

こうなっては致し方ないので、私自身もあまり見たくはなかったのだが、くだんの刺されたら痛い動画をざっと観た。観たのだが、そこに虫に刺された手のひらは映っていなかった。本当に出てきていないのか何度も確認したので(非常に消耗しました…)、間違いない。これは一体どういうことなのか。動画のコメント欄を確認して謎が解けた。

サムネイルの画像はいわゆるクリックベイト、つまり動画の中には存在しない煽情的な画像を入れることで注意を惹き、リンクを踏ませるためのものだったのだ。しかも、虫に刺されたような跡がある手のひらの画像自体がコラージュで、いわゆる「蓮コラ」と呼ばれる蓮の花托の画像を人間の皮膚上に合成したものらしい。トラウマ画像として有名だそうで、一瞬だけでも見てしまった家人が怖がるのも当然である。

子供向けのフィルターをかけていてもそうした動画が引っかかってしまうとは……。動画制作者の見境なさを心の中で激しく呪詛しつつ、家人を慰めた。あの手のひらは現実には存在しなくて、コンピューター上で合成したものなんだよ。そうやって興味を引いて、再生回数を稼ごうとしてたんだよ。

説明すると、家人はひどい!と憤りつつも安心したらしく、無事に寝た。

だがそれ以来、家人はYouTubeで動画を検索することを止めてしまった。サジェスチョンだけで楽しいゲーム実況動画がいくらでも観られるので構わないのだろうが、時おりお友達に人気のYouTuberを知らなかったりするようだ。そういう時は私に検索してほしいと頼んでくる。

彼は情報であふれたネットの海を検索し、たまたま悪意に遭遇することを恐れているのだ。考えてみればそれは新しい恐怖のかたちである。昨今はエロ広告のどぎつさがよく批判されているけれども、スキンケアの広告などでもグロテスクな画像を目にしてしまうことはあるし、現代社会にはそうした出会いがしらの事故があふれている。夜が怖いとおびえていたころと比べると、彼の恐怖はずっとリアルになってしまった。

それでも、この日本で生きていく限り、家人を情報の海から遮断することはできない。この世界の正しくなさに免疫がなければ、ニヒリズムや露悪的な言説に取り込まれてしまうかもしれないからだ。

まあ、だからこそ彼は勉強を続けるべきなのだろう。人は鳥瞰的な思考をしている時、怖いとか悲しいといった感情にはなかなか陥らないから。そういえば前述の「鎌倉殿」も、実朝の暗殺回から視聴を再開した。多分、年表に書いてあるような大事件だと冷静に受け止められるのだろう。武士の台頭から、天下統一、やがて四民平等に至る歴史の流れを学べば学ぶほど、悲劇の重みは薄れていく。

ただ、家人は「鎌倉殿」の最終回を観ていたくショックを受けたらしく、ラストは全然好きじゃない…と言っていた。予定調和に陥らない、なかなか衝撃的なエンディングであったことは確かである。世間の評判はいいみたいだよ、みんな絶賛しているねというお父さんのネット検索結果にも納得がいかないらしい。私にツイッターのサーチをさせて、どうしてみんな悲しいって言っていないの?と首を捻っていた。

そう、私たちは簡単に悲しまないし、簡単に怖がらない。語彙が増え、表現の精度が上がり、物語の技術を客観的に評価できるようになっていくからだ。そうやって私たちはネガティブな感情から距離を取り、むしろ悲劇やホラーを楽しむすべを学んでいく。

でも、そうやって北条義時と政子のドラマを「悲しい」と言えるのも、それはそれで素晴らしいことだと思う。そんな純粋な気持ち、お母さんは忘れちゃったからなあ……。ただ、このまま大人になったら、きっと生きづらいだろう。

だから、家人は学び続けなければならない。

断片化された知識はたいてい恐ろしいけれども、それを体系化して捉えれば飼いならすことができる。人間の複雑な悲しさも、文字にして言い表すことで優れた物語として味わうようになる。人類は学ぶことで少しずつ世界を既知のものに変え、恐怖や悲しみと向き合ってきた。学ぶことは、世界に立ち向かうことなのだ。

 

赤いピルは要らない

そんなこんなで、家人の受験勉強は前途多難である。……もうちょっとこう、勉強が難しいとかやりたくないとか、そういうことでつまづくと思っていたよ。それでも家人は、大人には想像もつかないほど新鮮な喜怒哀楽をもって国語算数理科社会と向き合っている。ついでに、ぬいぐるみ王国においても諸行無常や他者からの攻撃に対する防衛機構が作動し始めたようだ。

それは「馬さま」の君臨である。

家人が生まれた時に、私の母がお祝いに五月人形の飾り馬をくれた。ちりめん細工というのだろうか。なかなか精巧にできていて、鞍に一杯飾りがついているところなど縁起が良さそうだ。この馬をぬいぐるみの入っている籠の隣に飾っていたのだが、なんだか立派であるということで、家人とぬいぐるみ達はいつのころからか飾り馬のことを「馬さま」と呼ぶようになった。

馬さまは神通力を持っていて、ぬいぐるみ達に二回に一回は真実を告げてくれる。それって二回に一回は外れるということだから意味ないのでは?とも思うのだが、例えば宇宙の起源はどこにあるんですか?みたいな難しい質問についても50パーセントの確率で真実を教えてくれるのだから、なかなかのパワーである。

だからぬいぐるみ達は分からないことがあってもググったりせず、馬さまに質問する。馬さまの答えは間違っているかもしれないけれども、合っているかもしれない。ぬいぐるみ達にとって、真実はいつも宙ぶらりんのものなのである。

加えて、最近は馬さまの霊力が増している。ぬいぐるみ達が「この世界は馬さまの見ている夢な気がしてきた……」「うん、何だかそんな感じがする」などと言いだしたのだ。多分、『マトリックス』の影響ではないだろうか(少し前にお父さんと一緒にネオの弾丸避けアクションの動画を見ていた)。あるいは、塾で「胡蝶の夢」を故事成語として習ったのかも。

ともかく、世界は「馬さま」の見ている夢なのである。

ただし、たとえ世界が馬さまの見ている夢だとしても、ぬいぐるみ達は赤いピルを飲んで真実を知ろうとは思わないらしい。まあ馬さまだから良いかなどと呑気に言い合っている。確かに馬さまの見る夢ならば、それはぬいぐるみ達にとって優しいものであるに違いない。アメリカナダでは源氏も平氏も滅びずに仲良く過ごしていそうだし、分からないことは馬さまが教えてくれるから検索中にグロ画像に出会ってしまうような事故もない。

こうして家人はぬいぐるみ王国から諸行無常と未知の悪意との遭遇を排除したのである。

そんなわけで、没落の過程にあると思われたぬいぐるみ王国は今もしぶとく残り続けている。毎日違うぬいぐるみと寝るという習慣も家人は頑強に続けていて、こちらもいつか卒業するのかと思っていたがその気配はない。「もう、このまま大人になってもぬいぐるみを持ち続ければいいじゃない」とは夫の弁である。

夫の意見には完全に同意なのだが、いかんせんぬいぐるみの数が多すぎる。なにしろ総勢29匹もいるのだ。一匹でもうっかりなくしてしまったら大変である。せめてクレーンゲームで親戚がとってきた芋虫のぬいぐるみ(顔がない)くらいは処分しても……いや、無理だろうな。ブルーちゃんという名前があって、月一で一緒に寝ているもんな。

家人自身も、このままぬいぐるみを大事に保持し続けられるのか、とたまさか不安になるらしい。先日も深刻な様子で「人形供養っていうのがあるんだよね」と訊かれた。まさか処分するつもりなのかと思ったらそういうことではなく、うっかり失くしてしまった場合には供養というものをすれば取り戻せるのではないかと思ったらしい。

ぬいぐるみに対する不安は、彼自身の生活状況と連動している。先日、小学校で数年ぶりに林間学校が開催された。家人も楽しみにはしていたのだが、普段とはまったく異なる生活状況に置かれ、家族と離れて寝泊まりすることが心配だったのだろう。出発前日の夜になって、帰ってきたらぬいぐるみがいなくなっていたらどうしようと言いだした。いない間に火事があったら、ぬいぐるみが燃えてしまうのではないか。ちゃんと持って逃げるから大丈夫と言い聞かせても、こんなに沢山あったら一匹くらい忘れられてしまうのではないかと反論する。しまいには、ぬいぐるみの数を増やさなければよかった。一つでもなくしたら悲しすぎると落ち込んでいる。

まあ、気持ちはよく分かる。映画とかでも、悪漢に追いかけられたヒーローやヒロインが子供を連れて逃げるシーンなどで、手に抱えたぬいぐるみを落としてしまい、拾いに戻って窮地に陥るというのがお約束だもんな。その逃げる子供が抱えるぬいぐるみが29匹+1(馬さま)もいたら、絶対に、つむ。

よし、それならばエコバックを導入しよう。ぬいぐるみを入れているカゴにぴったり合うサイズのものを買ってかごの内側に装着しておけば、いつでも袋ごと持ち上げてふたを閉めるだけで避難できる。それなら火事じゃなくて部屋の模様替えや引っ越しにも便利だ。

提案すると、家人は納得して安心したらしく、無事に寝た。翌日、林間学校に旅立つ時も家人は深刻な顔をして、エコバッグよろしくね……と言い残して出かけていった。彼が本気であることは分かったので、ネットで検索の限りを尽くし、ぬいぐるみかごにジャストサイズなエコバッグを購入した。無事に帰宅した家人も、避難準備のぬいぐるみを見て安心したらしく、喪失の不安は口にしなくなった。(ただし、時おり全ぬいぐるみエコバッグに詰めて避難訓練をしている)

問題は解決したが、彼自身も己の心配性は十分に自覚しているらしい。林間学校から帰宅して数日経ったある日、寝る前にこんなことを言い出した。

――ぼくがこんなに心細くなるのは、こころが細いからなんだと思う。こころが細いとたまに弾丸みたいにびゅーんって飛び出すこともあるけど、普段はしょっちゅう心細くなるんだよ。

自分のこころのかたちは、人と少し違っているのではないか。家人は自分でそう思っているのだ。

弾丸みたいに飛び出せるんでしょう? なら、凄いじゃない。励ますと、家人は、ううん、飛び出したのは一度だけ、お母さんのお腹から生まれた時だよ……といって布団をかぶってしまった。

そんなことはない。ものすごい怖がりであるわりに、勇気をもって未知の世界へと踏み出しているではないか。世界の不規則な悪意や欲望を垣間見ても、多くの同級生のように世界や人生や他者に対して冷笑的な態度を取ろうとはしないではないか。今のままでじゅうぶんすごいのに、彼自身は恐怖や不安によって自分のこころが縮こまっていると思えるのである。

それでも、家人のこころの弾丸にはほんの少しだけ希望が込められている。いつか殻を突き破ってするどく空間を飛翔するときがくるかもしれないのだ。だって、ぼくはそうやって生まれてきたんだから。

その希望を握りしめて、手放さなければ。

いつか家人のこころの弾丸が飛び出していく日があるだろう。こころが細いからこそ、世界の重力に逆らうスピードで、彼は飛翔することができるのだから。