推し・天才・探偵

たしなみとしての推し

ちょっと前まで、「推し」というのはあくまでもオタク的な概念だったと思うのだが。小学6年生になる家人(息子)によると、最近ではクラスの全員に推しがいるらしい。「呪術廻戦」とか「鬼滅の刃」みたいな漫画やアニメのキャラクターとか、K-POPのアーティストなんかが人気なんだって。今日は推しの誕生日!とかクラスの女子がはしゃいでいるそうな。こうなってくると、もはや推しというのは持って当然のたしなみである。

いちおう家人にも推しがいて、それは「マッシュル」という漫画に一瞬だけ登場したキャラである。(「マッシュル」はジャンプの漫画で、ハリポタのパロディみたいな内容なのだけれども、登場する悪役が最終的に全員良い人になるところが家人にとっては安心できるポイントらしい)みんなに「それ、誰?」と言われているらしい。最近はほとんど登場していないキャラをわざわざ推すとは……。誕生日は不明だし、フィギュアやぬいぐるみがあるわけでもないし、家人の推し活もなかなかに前途多難である。まあ、「自分の推しは××です」と答えられることが重要なのかも? それくらいオタク的な趣味が一部の好事家のものから一般常識とか最低限のたしなみへと変化したということだろう。

私はというと、オタクの癖に推すという行為があまり得意ではない。画像や動画を集めたことも、推しグッズを買ったこともほとんどないので、収集癖が弱いのだと思う。マーベル映画が好きだからグッズがあふれている時に弁当箱を買ってみたりはしたけれど、普通に家人が使い倒して壊れました…。アイスホッケーも好きなのだが、こちらは好きな選手へのバッシングがでかすぎて心が折れたし。多分、推すという行為は同好の士とのコミュニケーションが大きな部分を占めるので、私のようなスタンドアローン・オタクにはあまり意義が感じられないのかもしれない。

そう思っていたのだけれども、最近になって私にも新たな推しができました。もともと結構好きだったんだけれども、最近になって好きな気持ちが一気に開花したというか。しかし同好の士がいるわけでもないし、ミーハーなことを吐き出す場所もないので、ちょっとここに書き留めておこうと思う。

 

推しの天才

私の推しは実在の人物で、まごうかたなき天才である。(マイナーすぎるので名前を挙げるのは控えておく)個人的には世界で一番頭のいい人だと思っている。御年82才だけどめちゃめちゃ鋭くて、たいそうチャーミングな方だ。

推しは文章をお書きになるのだがかなり難解なので、私はこれまであまり理解できていない気がしていた。が、最近になって「あ、なるほどね!」と腑に落ちる瞬間が増えてきた。私自身が年齢を重ねてきた所為かもしれないし、やっと理解が及ぶようになってきたのかも。

世の中に頭のいい方はたくさんいらっしゃるけれども、私の推しほど独特なことを考えている人はそう多くはない。回転が速いというよりも、ユニーク。おまけに文章の端々に現れるちょっと皮肉でペシミスティックな視点が最高で。ようするに、数多のポケモンがいる中から「推しポケモン」を選び取るように、その方は私にとって「推し天才」なわけです。

実は、今年に入ってこの方と直接お会いする機会があった。コンベンション的な場所だったのだが、出会ったのは正式な場面ではない。会場まで歩いている途中で道に迷いかけていたら、向こうから推しが歩いてきた。

――人違いだろうか。最初に思ったのはそんなことだった。推しだとしたら、どうして一人でいるのか分からないし、何で歩いているのかも分からない。82才だぞ、タクシーとか使うでしょ。半信半疑ながら、この道を歩いていったら会場ですかね?と訊いたら、にこにこしながらそうですよ!と答えてくれた。なので、会場まで推しと一緒に歩いた。思い返しても嘘みたいだ。

こんな朝早くからきついよね……みたいなことを仰ったので、ほんとそうですよねとか相槌を打った。内心、これは私の推しであろうか、帽子をかぶっているから良く分からないけど多分そうだ、でも違ったら恥ずかしすぎる、ここで大好きですとか口走ったら変な奴だと思われるだろうか。などと、ぐるぐるぐるぐる考えていた。

寒い朝だった。気温は零下で、林をつらぬく遊歩道は雪に覆われていた。会場に続く道は途中から急な坂になっていて、推しはお年寄りなので、用心深く手すりを握っていた。

私も雪道を歩くのが超のつく苦手なので、推しに輪をかけてたどたどしく坂を下りた。20年以上前に足の骨を折っていて、寒い日はいまだに金属のボルトで止めた部分が痛むのだ。しかも、滑りやすい場所を歩いていると骨折の記憶がフラッシュバックして怖くなってしまう。すみません、前に雪道で歩いていて転んで骨を折ったので早く降りれないんです、すみませんすみません。坂道は怖いし、二人きりの坂道で渋滞を引き起こしてしまって焦るし、告白するどころではなかった。

Well Done!

坂道を降り切ったところで、推しに暖かく労っていただいた。はきはきとした発音だった。とてもブリティッシュだった(推しは英国人なのです)。うぅ、優しすぎる。推しによくやった!と言われたことは、私の人生の勲章となるであろう。転ばずに坂を降りただけだけれども。

推しとの邂逅により、それは今年一番ラッキーな日となったのだが。その時の私は本当についていたらしくて、同日中になんとさらに2回も推しと遭遇した。向こうは完全に私を認識したらしく、顔が会うたびににこにこしてくれて、話しかけてくれた。

コンベンション的な場所へ出発する前に、知り合いから、もしも推しと会うことがあったら正直に自分の気持ちを話すと良いよ、絶対に向こうも悪い気はしないからね!と励まされていたのだが。二回目も普通に世間話しかできなかった。私は本当に意気地がない。

二度あることは三度あるというが、なんと会場を出るときにも推しと遭遇した。流石にお疲れだったのか帰りは徒歩ではなく、車を待っておられるところだった。勇気を出して、すごい好きです、共感しますというようなことを伝えたら、にこにこしながらお礼を言って下さった。引き留めるのも何なので、一言だけ伝えて後はおやすみなさい!と手を振った。私に同行していた女の子も、きゃーおやすみなさいって言っちゃった!と喜んでいたので、ミーハーなのは私だけではないと思いたい。

 

天才のジェンダー

推しと話して驚いたのは、彼女がとても柔らかい物腰の人物であったことだ。何故それが意外だったのかというと、なんとなく天才はエキセントリックなものだというイメージがあるからだと思う。

このあいだ家人にエヴァリスト・ガロアって知ってる?と訊かれた。子供向けの読本に出てきて印象に残ったらしい。お母さんはとてもオタクなので、漫画に出てきたから知っています!ガロアといえば19世紀フランスの数学者で、夭折の大天才である。弱冠20歳にして、決闘で出来た傷が原因で亡くなった。学校で教師と喧嘩したり放校になったりした所為で生前は評価されていなかったが、現代数学の基礎を作った人物だと評価されている。ドラマチックなので、中二マインドな家人が興味を持つのは分かる。

天才というのは、概してガロアみたいなキャラだと思われてきた。あまりにも頭が良いので、社会に不適合を起こしてしまうタイプというか。シャーロック・ホームズ(特にBBCドラマ版)なんかが典型的である。でも、そういう態度が許容されてきたのは、天才が男性である場合に限るんじゃなかろうか。

実は私はもう一人天才を知っている。こちらはもう15年近く前になるのだが、友達の結婚式でたまたま知り合った人だ。海外ウェディングだったので一緒に行動する機会が多くて、仲良くさせていただいた。日本でも何回かお茶をしたりしたのだが、色々と環境が変わって疎遠になった。最近になって、ふとあの人はどうしているだろうか?と調べてみたところ、理系の何だかすごそうな賞を取られていた。難しすぎてまったく理解できなかったが、どうやら真賀田四季森博嗣推理小説シリーズに登場するキャラクター)レベルの天才だったらしい。

彼女がすごい人だということを、私は全然気がつかなかった。どちらかというと大人しくて穏やかな方で、美味しいケーキや趣味の話とか、誰とでもするような会話しかしなかったからだ。周りに限りなく迷惑をかけていそうなエヴァリスト・ガロアとは全然似ても似つかない。

どうして女性の天才は物静かな人が多いんだろうか。母数が2というのは少なすぎるので、もちろんエキセントリックな天才女性だっているかもしれないけれども。

おそらく、多くの場合に女性はどんなに頭が良くても唐突で横暴で脈絡のないふるまいは許されないのだ。何様だって言われるから。どんなに賢くても、偉そうにしていたら周りは感銘を受けてくれないから。用心深く壁を作って自分を守りながら、彼女たちは自分の考えを控えめに述べる。

 

探偵の推理は一足飛び

推しとの遭遇以来、探偵小説についてよく考える。

名探偵というのはおおむね賢い人びとだとされている。天才、と言ってもいい。名探偵たちは奇矯な振る舞いをすることが多くて、そして大多数が男性である。もちろん女性の名探偵だっていなくはないけれども、圧倒的な少数派だ。

男性名探偵たちの行動は、考えてみればかなり威圧的である。例えば、探偵たちはよく関係者一同を集めて推理を披露する。劇的ではあるけれどもあまり効率的なやり方ではないし、犯人を追い詰めて自白に持っていくという機能はあるのだろうけれども、押しが強くないと無理だ。小柄な女性だったら、むしろ裏で調整した方が手っ取り早いのではないかな。(そういえばジェームズ・ヤッフェの小説に登場する「ブロンクスのママ」は、背後で暗躍するタイプの名探偵ですね)

しかも、探偵と助手の会話はいつもディスコミュニケーションに満ちている。探偵は頭が良すぎて、助手にはその思考回路を追いきれないからだ。どうして私たち読者は一足飛びの結論を出すことを「頭が良い」とみなすのだろうか。相手の会話のペースに合わせないことが、どうして「賢い」ことの証左となるのだろうか。

探偵の天才性は、男性というジェンダーによって底上げされている気がする。

そういえば天才がしょっちゅう登場する森博嗣の小説に「それはトゥリヴィアルだ」という台詞がある。トゥリビアルは「些末なこと」という意味で、数学的にはごく基本的で明らかな事象のことを指す。小説に登場する天才は、地上の現世的なロジックに拘泥することを「トゥリビアル」と呼んでいた。昔はそういう理系ミステリの感情や感覚よりも論理を優先するところがクールで素敵だなと思っていたのだが。最近、そういう前提が少し苦手になってきた。

私たちは些末なことを捨象できる人々が賢いのだと思い込んできた。物事を思いがけない方向から単純化して理解することを明快だと評価してきた。でも、現実の世界は様々な要因が絡み合ってできていて、一刀両断するような斬新でシンプルな言説はむしろポピュリズムに吸収されがちに見える。

だとしたら、一足飛びに結論を出さないで、みんなが納得できる着地点を探すような知性の持ち主のことも、「知恵者」ではなく「天才」と呼んでもいいんじゃないだろうか。……まあ、私の推しは論理が飛躍しているわけでもないのに難解すぎてなかなか追いつけない思考の持ち主ですけどね(自慢)。

そういうわけで、推しと一緒に写真を撮ることもサインを貰うこともなく、私の推し活は静かに終了した。彼女のことをそこまで推している人は多くないので、残念ながら興奮を共有してくれる人もあまりいない。でも、推しと歩いたあの日は間違いなく今年のハイライトだったし、あれ以来私は知性について考え続けている。

勉強ができるとか、頭の回転が速いとか、そういうことではなく。ただ、自分にとって納得のいく答えを静かに探し続けること。その答えを小さな声で口にしてみること。それはたぶん誰にでもできることだけど、意外と誰もやっていない。(つい、みんなが言っていることについていきたくなったり、自分の意見を押し通そうとしたりしてしまう)

ゆっくりと歩くように考える人になりたい。

あの日、推しと二人でゆっくりと進んだ雪道のように。