旅する三月

出張月間

一カ月で地球を二周するくらいの距離を移動した。

諸々の偶然が重なりまくって出張続きだったのである。きっと、フライトアテンダントパイロットのお仕事をされている方々の移動距離はこんなものではないのだろうけれど。私は動かずにじっとしている方が好きなので、こんな強行軍はもう経験したくない。体力も衰えてきているし。

昔は飛行機に乗るだけでワクワクしていたし、出来るだけたくさんの機内映画を観てやろうと思っていた。でも、今はそんなことをしていたら体がもたないので、機内では働くか食べるか寝るか、寝ようと努力していた。いさぎよく娯楽を捨て、ついでに着圧ソックスをこまめに履いていたおかげで、何とか目まぐるしく変わっていくタイムゾーンにも対抗することができたと思う。(着圧ソックス、本当に良かったです。おすすめ。これまで機内でなかなか寝付けなかったのは足がむくんでいたんだな……)

旅行としてはあまり楽しくなかった。周囲の旅人たちを観察したり、機内でマイナーな国の映画を観たりしたかったなあ。移動そのものを楽しむためには、心の余裕が必要なのだろう。

とはいえ、旅行中は何をすることもできない隙間時間が増える。飛行機が着陸するときはPCを開けないし、ネットにも繋げられないし。SNSという暇つぶしの道具から切り離されて、本当にぼんやり考え事をするしかない瞬間があるのは、旅する時間の良いところだ。

旅行記としては中身がなさすぎるけれども、そういうときにふわふわ考えていたことを書き留めておきたい。

 

街のノイズ

というわけで、仕事でベネチアに行った。ただし「水の都」と呼ばれる美しく古い街並みの島ではなく大陸サイドに用事があったので、ベネチアらしいところはほとんど見られなかった。幅の広い道路を車がびゅんびゅん走っていて、ロードサイドショップと呼ばれるような大型のチェーン店が立ち並んでいた。日本の郊外とあまり変わらなかった。

旅行というと、ついついその地域でしか見られないような街並みを求めてしまうけれども。そうした街並みは意識して保っていなければ、どんどん「郊外」に浸食されて消滅してしまうんだろうな。もちろんそれが悪いということではない。だって、実際問題としてベネチアの旧市街に暮らすのは不便そうだし。

私たちが「観光」として目にするものは、美しい幻想なのだと思う。

ただ、観光地にも時おりノイズが混じってくる。何しろ人が暮らしているので、美しい夢を保ってばかりでもいられないのだろう。私はそういうところが結構好きだ。

実は、数時間だけ仕事を抜け出してベネチアの旧市街をうろついた。ほとんど家族へのお土産探しで終わってしまったので、美術館とか教会といった場所はほぼ巡ることが出来なかったけれども。でも、色々な風景が垣間見れた。サボって良かったです。

 

 

旧市街でも新市街でも見かけた落書き。日本では見かけませんね。そして、誰かが思ったんだろう。パレスチナだけじゃなくて、俺の故郷も開放してくれよ、と。

コンゴの紛争では、540万人以上が亡くなっている)

 

 

マイクロアグレッションと愛想

イタリアで驚いたのは、結構な頻度で無視されることだ。現地に到着し、フライトアテンダントが飛行機を降りる乗客にありがとうございましたと声をかけているときに、私だけ挨拶をスキップされた。食堂で列に並んでいるときも、私の後ろに並んでいる人に先に注文を聞こうとしていた。

飛行機での対応はわざとだったかもしれないが、食堂のおばちゃんは無意識にスルーしてしまったんだろうなという気がする(注文を聞いてからの応答は親切だったから)。アカデミー賞の授賞式で、ロバート・ダウニーJrがプレゼンターで中国系ベトナム人キー・ホイ・クァンを思い切り無視していたが、あんな感じだろう。悪気はないけど、アジア人が常にみんな従業員であるわけではないことを、つい忘れちゃうんだよね。

こういうのもマイクロアグレッション(無意識の偏見や差別が、些細な場面で何気なく表出してしまうこと)と呼ぶのかもしれない。ただし、実際の出来事を用語に落とし込むことで細かい経緯を捨象してしまったり、思考がストップしてしまったりすることがあるので、私は自分の経験にあまり名前を付けないようにしている。

今回のイタリア出張も、まあ嫌な気分にはなったのだが、その気分にも続きがある。実はその直後にアメリカへ行ったのだ。こちらも出張。乗り継ぎ以外で米国に行くのは初めてだったのだけれども、とても独特な地域だと感じた。

ともかく働いている人がフレンドリーなのである。こんにちは、調子はどう?から始まって、あらゆる世間話を振ってくる。みんな笑顔だし、アジア人だろうがなんだろうがお客さんには優しかった。

ただし、薄給な類のサービス業についているのはほとんどがいわゆる「有色人種」で、彼らのお給料のほとんどが時給ではなくチップである。だから、愛想良くしてくれるのは、少しでも収入を増やすための努力であるのだと思う。私だったら、チップをはずんでくれない客のことは内心、罵倒しているね。

あの国で暮らしている「白人」で裕福な人たちは、自分たちがエスニック・マイノリティと仲良くしていると信じているのかもしれない。だって、毎日親しく言葉を交わしているし、チップを上げたら嬉しそうにお礼を言ってくれるし。差別なんて存在しない、自分たちはうまくやっているって。でも、それは格差を固定化する幻想であるような気がした。

ヨーロッパでUber的な車に乗ると、ドライバーが最初から最後まで携帯電話でおしゃべりしていることがある。彼らは移民なのでそれぞれの第一言語でしゃべっており、私は完璧に無視されたまま目的地に到着する。ああいうのと、チップのために愛想良くされるのとどちらがマシなんだろう。

あるいは、マイクロアグレッションを経験するイタリアと、少なくとも接客の場においては発現しようがない構造が築かれているアメリカと、どちらがマシなんだろう。

「マシ」かどうかを考えるのも難しい。誰にとって? どこから見て?

難しいからこそ、すぐに答えを出さないで、ラベルを貼って満足しないで、考え続けていくことが大事なんだろう。

 

 

 

ダラスの空港では、そこら中で「優良従業員」が表彰されていた。空港で働く人だけではなくて、スタバなんかでも讃えられていた。彼らはみんな、お客さんに愛想良くしたのだろう。全員が非白人だった。