倍速する麒麟
(この文章は単独で読むことができますが、「トナとぬいぐるみ王国の没落」、「トナとぬいぐるみ王国の抵抗」、「ぬいぐるみ王国と諸行無常の来襲」と微妙に繋がっています。ご参考までに)
麒麟の戦国時代
幾つになっても子供に対する心配は尽きないというが……家人(息子、11歳)もとうとう六年生になりました。過干渉になるのも良くないと思うので、心配する気持ちはあまり表に出さないようにしている。
出さないようにはしているが、家人はともかく怖がりで暴力を嫌っている。そんな様子で君は世間の荒波をかいくぐっていけるのかい? はらはらする気持ちをぐっと呑み込む日々なのである。
最近の家人は歴史が好きで、今年の大河ドラマ「どうする家康」も新年早々からばっちり待機して鑑賞した。新解釈の家康と家臣団の様子が面白くて、私は楽しく鑑賞したのだけれども、家人は観終わった瞬間に体を小さく丸めて号泣してしまった。慌てて理由を確認したところ、人が沢山死んでしまい、戦さが続くので悲しくなったとのことであった。
小野不由美の異世界ファンタジーシリーズ「十二国記」に登場する麒麟は慈悲深い生き物で、争いや血の臭いを厭う。もちろん家人は血の臭いを嗅いだだけで病気になったりはしないが、争いに巻き込まれる民の姿を見て悲しんでいるところがあまりにも麒麟である。
岡田准一の織田信長が家康を「俺の白兎」呼ばわりし、世間が「俺様」とか「スーパー攻様」(的を射た概念ですね)などと盛り上がっているころ、家人は信長が怖いとしくしく泣いていた。心優しいのは良いことだけれども、それこそ家康みたいにイジメられるのではなかろうか。
「十二国記」の麒麟は王様を選び出す代わりに庇護されて生きるが、家人はただの小学六年生なので、たくましく生きていくしかない。
いじめ回避ルート
繊細なハートを持つ子供は大人からみると可愛いのだが、同年代からみると絶好のターゲットではないかという気がする。……するんだけど、実際のところはどうなんでしょう?
実は、私にはこういう感覚がさっぱり分からない。何しろ私自身は小学生の時ひとりも友達がいなかったし、学年の全員からハブられていた。学校カーストの下位に属していたとかではなく、本当に全員から疎まれていたのだ。だから、人がいじめの対象を選びだす過程がさっぱり理解できない。
それでも私は運がよくて、不登校になることも鬱になることもなく卒業できた。中学も高校も階層の最底辺に位置していたけれども、まあ小学校よりはマシだった。だからそのまま過去のことは忘れていたのだが、小学校生活真っただ中の家人に対して何のアドバイスもガイダンスもできないのはどうかという気がしてきた。それで頑張って思い返してみたのだが、そういえば私自身も純粋無垢で夢見がちで素直なお子様で、体育が大嫌いで本ばかり読んでいたような? ドッジボールをこよなく憎む家人と似すぎていて、ますます心配になる。
昔からよく、「波長が違う」とか「不思議ちゃん」とか言われ続けてきた。もうちょっと普通っぽい振る舞いができていれば、いじめのターゲットにならずに済んだかもしれない。まあ、私の場合は三半規管が弱くてしょっちゅう嘔吐していたせいでケガレ扱いされたのがそもそもの原因だという気がするけれども。
今のところ家人が特にいじめられている様子はない。いじめ報道の多さを考えると不思議だが、昔は報道される前に握りつぶされていたのではないだろうか。そういえば昔はいじめられている側の親が謝罪させられていたし、思えば随分と世の中は良くなっている。まあ「苗字+さん/くん」呼びが一般化していて失礼なあだ名とか使わないらしいし、最近の小学生は人権意識が発達しているのかもしれない。
でもほら、今の子供は昔よりも空気を読むのに長けているとか、暴力をふるう代わりにネット上でいじめたりするって言うじゃないですか。コミュニケーション能力が高度化していて、いじめも水面下で行われるものになっているとしたら、それはそれで恐ろしいと思う。
じゃあ、もうちょっといじめられにくい性格へと家人を陶冶していくべきなのだろうか。しかし彼は麒麟なので、何をどうやっても暴力が苦手なのは治らない。ぬいぐるみ王国も家人の生存の根幹にかかわる装置なので、絶対にスイッチを切ってはいけない。スポーツはもう既に色々と試して挫折している。だとするとあとは……夢見がちなところが表面化しないようにカバーするくらいだろうか。
竜の卵さがし
というわけで、まずはサンタさんからのプレゼントを打ち止めにするところから始めようと考えている。去年のクリスマスもこれで最後にしようと思っていたのだが、ふさわしいプレゼントが見つからずに諦めた。はい、これが最後ですよ! いい思い出にしてね! みたいなプレゼントをあげたいじゃないですか。
とはいえ最後から二番目のプレゼントもなかなか難しかった。小さいころは、例えば「すみっこぐらし」のニンテンドー・スイッチのソフトなどを「サンタさんからのプレゼント」として貰っていた。流石におかしいのではないか。北極圏に暮らすサンタさんが、どうやって日本のゲーム会社のソフトを買うというのだろう。
だから去年は、すっかり紅茶趣味が板についている家人にティーカップをあげた。こんなのです。
クリスマス直前に間に合わないどうしようと町をさまよっていて見つけた。ポーランドの製品らしい。サンタさんは日本まで買い物に来たりしないと思うが、欧州大陸ならそれなりに行動範囲ではなかろうか。雪景色というところも何だかサンタさんっぽい。私の深謀遠慮の結果を家人もたいそう喜んで、せっせと紅茶を飲んでいる。
昨年は何とか切り抜けたが、来年で打ち止めにしたい。これが最後のプレゼントですよ!ということが伝わるようなものをあげて、緩やかにサンタさんから卒業してほしい。「え、おまえまだサンタとか信じてるの? ダサい」とか、揶揄われる前に。
有終の美を飾るプレゼントとはどういうものだろうか。いや、考えすぎずに気軽にその時欲しいゲームソフトでもあげる方が、分からせ? におわせ? なんだろうか。新年早々から年末のことを悩んでいたら、見透かしたように家人が言ってきた。
「――来年はぼく、サンタさんから竜の卵が欲しい」
さも良いことを思いついたような口調だった。多分、家人も実はサンタさんは存在しないのではないかと疑っていて、だからこそ無理難題を出せばサンタさんの実在/非実在が明らかになるのではないかと考えたらしい。……君はかぐや姫か。
まあ、卵型をしたきれいな鉱石などを探してみようかと思っている。さすがに鉱石を竜の卵だと信じはしないだろうが、宝物のようにとっておけるものがあれば。現実に軟着陸した後でも、不思議なものに憧れる気持ちを思い出すことができればいい。
動画は倍速で
そんな風に思っていたら、先日、唐突に危機が訪れた。
家人が塾の国語問題で読まされた文章が、クリスマスプレゼントに対する父親の加担を思い切りばらしていたのである。サンタクロースを見つけるために寝ずの番をする兄弟の隙をつき、巧妙にプレゼントを配っていた。
「やっぱりサンタクロースっていないんでしょう?」
半笑いしながら、真正面から尋ねられた。これは塾がひどくないか。拘束時間もそれほど多くなくてなかなか良い塾だと評価していたが、こんな文章をテキストとして選ぶとは見損なったぜ。
色々とリサーチしてみたのだが、小学校の高学年になってもかなりの数の子供がサンタさんの存在を信じている。世界中のお父さんお母さんが共謀して嘘をついているし、NHKニュースですらサンタさんの存在を真っ向から否定するようなことは言わない。(今年もサンタクロースが北極圏を出発しましたという報道)
このテキストで、なーんだサンタさんっていないんだ……と思った子は多いに違いない。まあ、元々サンタさんは今年で卒業するつもりであったし、少し時期が早まるだけのことではあるのだ。
……それでも。あまりにも不意打ちの質問で、真正面からの問いかけで。家人はにやにやしていたけれども、どこか残念そうで。とっさに、私は肯定できなかった。
「サンタさん、いるに決まってるじゃん。それ戦前の話だからじゃないの? サンタクロース、まだ日本に来てなかったんだよ」
我ながら苦しい言い訳である。いや、それ以前に肯定すべきだったのだ、サンタさんなんていませんよって。その方が夢見がちなところを矯正できただろう。でも、どうしても、夢を決定的につぶすようなことは口にできなかった。
まあそうかもしれないけどさあと、家人は半分疑いながら半分安堵していた。
サンタさん暴露事件は、私にとってもなかなか考えさせられる出来事だった。どんなに頭ではわかっていても、体が動かないということはある。もう少し夢見がちな性分を控えめにした方が家人は生きやすいと思うけれども、そのために空想を否定するようなことを口にすることは、私にはどうしても無理だ。こうなったらもう運を天に任せて、このまま大過なく家人が成人することを祈るしかない。
それに家人は私ではないから、私と同じ道を進んでいくとは限らない。もう少し人付き合いが上手いし、目端が利く。時代だって違う。
そういえば最近、家人は新たな技を覚えた。
動画を倍速で再生するのである。若い人がよくやるやつである。ドラマやニュース、大学の授業も倍速で視聴するんだとか(NHKニュース)。映画なんかはペーシングにも製作者の意図があるから、倍速で再生するのは何だか申し訳ない気がしていたのだけれども。
家人は大河ドラマを倍速で再生することで、怖さを回避しているらしいのだ。
なるほど、そういう目的でも倍速は有効なのか。確かにせっかちすぎる織田信長はそれほど怖くないかもしれないし、戦争を始めとする暴力も多少は戯画化されるのかも。家人は家人で、今時の方法を使いながら、暴力や理不尽を横目にやり過ごそうとしているらしい。
親と子供は別々の人間であることは重々承知していても、時おり自分の不安をつい投影しそうになる。何しろ報道やSNSをみればいじめや差別や抑鬱にあふれていて、トラップが多すぎて人生という道を歩けなくなりそうだから。
それでも、生まれてきた子供はきっと不幸を経験するだろうというのは反出生主義の根本原理だ。子育てをしている以上はその不安に抗っていかねばならない。
多くの子供がサンタクロースを信じていられるのは、大人たちが嘘をつき続けているからだ。その嘘によって、子供は楽しいクリスマスを経験して大人になるのだから。
だから君は、そのままで大丈夫だ。大丈夫だということにして、行けるところまで行くしかない。不安や心配はとりあえず私が預かっておくし。
いつか、手のひらの中の鉱石から竜の子供が孵化するかもしれない。そんな空想が広がる竜の卵を、私は今日も探している。